洗濯で哲学

わが家では洗濯は僕の担当です。治療院がおわり家に帰ってから洗濯をし、夜に干してしまいます。梅雨の季節は天気が気になりますね。乾きも悪くやきもきします。

ちなみに僕は料理は何にもできません。ごはんすら炊いたことありません。中学校のグリーンスクールで飯盒(はんごう)で炊いて以来やったことがありません。

だから僕の食事はすべて嫁さんまかせ。ある意味で生命をゆだねています。結婚した当初、あまりに何もできない僕をみかねて嫁さんが「私、しげのお世話ばかりしててペットみたいなもんだね」と言って僕に【お手】をしろと言わんばかりに手を差し出してきました(屈辱)

それ以来かな?洗濯と風呂たき、風呂そうじは僕の担当になりました。嫁さん曰く「洗濯が嫌いだから僕がやるようにしむけた」そうです(汗)

そんなわけで洗濯は僕のライフワークになりました。

思い出すと父も洗濯とアイロンがけが担当でした。休日も朝から洗濯をほしている姿を見て「休日くらいノンビリすればいいのに」と思っていました。

あれから20年。今では僕が同じようになっています!!(汗)

洗濯物がたまっていると洗濯せずにはおれません!

洗濯が片づくと気分がスッキリします!

忌まわしき遺伝子が僕の中にも受け継がれていました(汗)しかし洗濯というのは、やってもやっても終わりがありません。気分がいいのはほんの一瞬。その日の夜にはあらたな洗濯物が生まれます。

ある時、嫁さんとゴミ捨てに行ったとき「ごみってすぐ溜まるね。なんでだろうね。」と言われ僕は思わず「それこそが生きている証(あかし)ですよ!」と答えてしまいました。

そうです洗濯物もゴミもかたづけても、かたづけても溜まるのです。人が生きている限り細胞が代謝してアカがでるように、それはまるで生命そのものようではありませんか!

なーんて洗濯物をたたんでいるとちょっぴり哲学的になる夜でした(笑)